精読だけでは届かない場所──多読が育てる英語との距離感

「多読は意味がない」とか、「流し読みでは力がつかない」といった意見を耳にすることがあります。
たしかに一理あります。

流し読みばかりしていると、わかるところだけをつなげて、本当に大事な部分を飛ばしてしまう。
“なんとなく”の理解のまま終わってしまう危険性もあります。

でも、教室で生徒たちを見ていると、やっぱり多読をしている子は違うんです。

精読の限界

精読はもちろん大切です
一文一文を丁寧に読み、文法や語の使い方を意識して理解する力は、英語の「骨格」を作ります

けれど、精読だけだとどうしても量が足りない
読むスピードも、語感も、言語としての「慣れ」も育ちません

しかも精読の題材は、どうしても難しい内容になりがちです。

抽象的なテーマや難単語が多く、逆に基本的な語や日常的な表現に触れる機会が減ってしまう。

難しいものを理解しなくてはいけないので、ますます量も減ります。

その結果、「理解はできても自然に読めない」「簡単な単語が出てこない」という状態に陥ってしまうのです。

「量」が足りないという現実

私は以前、「多読なし」で英語を教えていました。
そこで痛感したのが、圧倒的な“量”の不足です。

子どもたちはたくさん問題を解いてるので時間をかけて英語に取り組んでいるように見えます。

でも実際には、解説を読んだり、先生の日本語の説明を聞いたりする時間がほとんど。

つまり、「英語に触れている時間」が驚くほど少ないんです。

だから、いくら勉強しても英語が遠いまま。
文法も理解できず、精読をしても読めない。

スペルも苦手で、書けない。
「勉強しているのにできない」──そんな子を何人も見てきました。

多読が育てる“なんとなくわかる”感覚

一方で、多読をしている子たちは違います。
完璧に理解しているわけではなくても、
英語を前から読める感覚や、文の流れをつかむ勘が育っています。
それがいわゆる「なんとなくわかる」。

この“なんとなく”は、曖昧ではなく、
たくさんのインプットの中で形成された直感的な理解のネットワークです。

そして、それは「得意」や「好き」という感情を育てます。

英語が嫌いじゃない、という力

英語が苦手な子たちは、やっぱり苦手なままです。
文法も、精読も、スペルも苦手。
でも、多読をしている子たちは、英語が嫌いじゃないんです。

むしろ「得意」だと思っています。

この「嫌いじゃない」「得意だ」という気持ちは、本当に大きい。
それがあるからこそ、

  • 間違えてもそこまで気にしない
  • 英語を見ることに抵抗がない
  • 難しくても「そのうちできる」と思える

英語を続ける力が残っているんです。

多読は、テストの点を上げる即効薬ではありません。
でも、英語との関係を壊さない学び方なんです。

「英語が嫌いにならない」ことが、最大の成果

精読は深さをくれる。
多読は広さとやわらかさをくれる。

どちらが良い悪いではなく、
多読は「英語に触れる量」を圧倒的に増やし、
その中で「英語が嫌いにならない」気持ちを育ててくれます。

英語学習でいちばん大事なのは、

英語を続けたいと思えること。

多読は、その「好き」を支える静かな力なんだと思います。

精読は、英語の「構造」を理解させてくれる。
多読は、英語の「リズム」を感じさせてくれる。

どちらも必要だけど、
英語が“遠いまま”の子に足りないのは、たいてい「量」。

精読だけでは届かない場所──
そこに、多読が連れていってくれますよ。

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